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2011年10月31日月曜日

橋下徹 「どうして君は友だちがいないのか」(河出書房新社)にみる社会・家族そして処世術


橋下徹とはいかなる人物であるか非常に興味がある。橋下氏にはそれは困難な境遇から「社会的地位」を獲得した人に見られる危うさが感じられる。「どうして君は友だちがいないのか」から彼の人物像が見えてくる。

この本は、2007年にいじめに悩む中学生を対象に自身の経験を踏まえた対処法を書いている。
 こどものころの人間関係に悩む必要はない。
 うまくいかなくても自分の責任ではない。
 人間関係は変わっていく一時的なものだ。
 もし身の危険があるような場合は、強いもの手下になってスネ夫のように生きればいい。
 いじめられるのが嫌ならいじめる側になればいい。
 やがて出口は見えていくる。・・・・

彼がつらい子供時代を過ごし、学んだことがよくわかる。彼の子どもたちに対するアドバイスの当否はひとまず置いておく。この本のなかで大人社会・家族・処世術について触れているところを見てみる。彼の人柄が見えてくる。

彼は言う。
 大人の社会は利害関係が発生して、損得勘定で動くことが多い。
 仕事ができるかどうかで人生の80%は決まる。
 いわゆる友だちよりも、(仕事に関して)教え教えられる関係のほうが重要になってくる。
お金を稼ぐためにうまく仕事するかが大切だということだ。彼がサラ金御用弁護士になって短期間で年収数億を稼ぐようになったことが理解できる。では現在の政治家稼業はどこで損得勘定があっているのだろうか。きっと私の想像できない部分で帳尻があい、損をしない計算になっているのであろう。「親切で何も要求しない正義の味方なんていない」と彼は明言する。

家族についてはこう書いている。
 家族が大人にとっての友だちだ
 家族がいればさびしくない
 損得抜きで並列の関係でいられる
これは友だちについて「そもそもが役に立たない存在」メリットなし、面倒ばかり、いっしょにいてもなにか与えてくれるわけではないと断じているのと好対照である。家族についての本心だろう。彼の3男4女の子だくさんもそれを裏付けている。しかし「もちろん、これは平和な家庭の場合で、家族が落ちつかない場合は、お父さんもお母さんも、そとに友だちを求めてさまよっていることもままありますが・・・。」とも書いている。自分の親のことが念頭にあるのだろう。家族関係ではずいぶん苦労をしたのだろう。政治家は公人でありプラバシー権は制限される。しかし家族は別である。橋下氏の家族について云々することは控えるべきである。彼にとって家族以外の人間関係は損得有の上下関係でさびしいもののようだ。

彼は生き方として、強いものについていくことをすすめる。
 力関係を見てよく動く
 力関係をうまく使う
 強いもののパシリになる
スネ夫のような生き方をすすめる。一時期かれは紳介のパシリであった。今は誰のパシリなのだろうか。大型公共事業を期待する関西財界か、サラ金特区を期待する貸金業界か、カジノ建設を望む暴力団か、教育の政治支配をめざす右翼勢力か。

橋下批判が各方面から起こっている。流れは変わっている。かっての「橋下ブーム」は終わった。橋下氏は空気を読むことの重要性をよく知っている。周りの反応をよく見て、政治の世界から退く準備をする時だ。彼は「いじめられた場合はもがいてはいけない」と書いている。落ち目の時はもがかず静かに消えていけばいい。いまこそ政界をさまよわず自分の家庭に帰る時である。

2011年10月28日金曜日

「新潮45」 11年11月号「最も危険な政治家」橋下徹研究を読んで   特異なパーソナリティは自ら明らかである わざわざ親のプライバシーを暴く必要はない


「新潮45」11月号が売れている。書店に行ってもなかなか手に入らない。アマゾンでも売り切れで、中古にプレミア価格がついてと定価の倍の値段(送料含む)で売られている。とりわけ知事選・市長選挙が行われる大阪地域では飛ぶようにうれているそうだ。橋下氏への関心が高い。私は何軒かの書店を捜し歩いて、ようやく阪急梅田の紀伊国屋で一冊手に入れることができた。新潮社は増刷中である。
 特集「最も危険な政治家」橋下徹研究には次の4本のレポートが掲載されている。
1、孤独なポピュリストの原点 上原善広(ノンフィクション作家)
死亡した実父は暴力団組員だった。これまで一度も書かれなかった「橋下徹の真実」
安中の橋下家 父親の稼業 飛鳥の府営住宅で 過去との決別 政治家と弁護士の「資質」 大博打
2、大阪府知事は「病気」である 野田正彰(精神科医、ノンフィクション作家)
挑発的発言、扇情的な振る舞い、不安定な感情 それから導かれるのはある精神疾患である 
「いじめ」育ちの空気読み すり替えと弱者攻撃 掃除をしない高校生 知事の「病名」
3、机上の空論だらけのインチキ政策 薬師院仁志(帝塚山大学教授)
大阪が都になれば、景気がよくなり、経済も成長するのか。そんな保証はどこにもない。
大阪都構想の本当の狙い 借金を増やした橋下府政 空論につぐ空論
4、盟友・紳助が抱える時限爆弾 一橋文哉(ジャーナリスト)
知事も暴力団も絡めて、紳助が沖縄で始めようとしていたビッグビジネスとは何か
  不動産投資のアドバイザー 紳助は「芸能舎弟」である 集結したカネの亡者たち カタギに迷惑をかければ除籍

政治家は公人であるのでプラバシー権が制限されるのは当然である。公共の福祉が優先される。大きな権力を握ることになる政治家の人となりが明らかにされ、有権者がそれを知ることは意義があり優先される。特に政治家本人の幼少時より現在に至る行動・発言・文書の研究はその人のパーソナリティを知る助けになる。野田正彰の分析によれば橋下氏は「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」である。こんな人物が政治家・首長にふさわしいかどうかよく考えなければならない。

しかし、本人の力ではどうすることもできない親の「出生地」「職業」「死因」を明らかにすることが公共の利益になるとは思わない。家族のプライバシーについては慎重に守る必要がある。家族のプライバシーの開示なしには、公人本人のパーソナリティが解明できない場合に限って家族のプライバシー権は制限されるのだろう。橋下氏の場合は本人の言動・著作から本人のパーソナリティは自ら明らかである。わざわざ親のプライバシーを暴く必要はない。




  
 

2011年10月24日月曜日

元サラ金御用弁護士橋下徹氏がなぜ天下国家を語るのか



橋下氏は、辞職を同意した本会議で「大阪の統治機構のあり方、大阪府・市のあり方をなんとかしなければという思いが日に日に強まっている。今や押さえることができない」と表明。(朝日新聞)「明治維新、倒幕になぞらえ『沈みゆく日本に黙って乗っとくわけにはいかない。沈む前に、地方から(改革を)やらなきゃ。その地方は、この大阪しかありません』と訴えた。」(日刊スポーツ)大阪のため、日本のために居ても立っても居られないと言うのである。本当にそれが彼の本心なのか。それとも方便なのか。彼の経歴を見ると本心とはにわかに信じがたい。

橋下氏は大学を卒業した1994年に司法試験に合格。1997年に大阪弁護士会に弁護士登録。弁護士2年目の1998年、大阪市内に「橋下綜合法律事務所」を設立し、示談交渉による解決を専門にする。消費者金融大手の「アイフル」の子会社の商工ローン「シティズ」の顧問弁護士を8年間した。サラ金の事業を支える弁護士だったのである。その示談交渉で磨いたノウハウを本にしている。「最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術」(日本文芸社)「心理戦で絶対負けない交渉術」(日本文芸社)には、どんな相手でも丸め込む48の極意、思い通りに相手を操る非常の実戦テクニックが書かれている。そしてその交渉の話術をいかしてテレビのバラエティー番組でタレントとして人気を得た。

サラ金側の示談交渉を専門にしていた弁護士がなぜ世のために働きたいと言うのか。彼はサラ金のもうけを増やすことにより、自分の収入を得てきた。サラ金御用弁護士だ。サラ金御用弁護士は一般市民の味方をしてきたとは考えられない。橋下氏に聞きたい。サラ金御用弁護士の彼と政治家の彼がどんな関係にあるのか。彼にとっては連続性があるのか、それとも過去を否定して今の政治家としての彼があるのか。

きっと橋下氏は過去の自分を否定するとは言わないだろう。そうなら能弁な彼であるこれまでに自ら表明しているはずだ。世間がどう思おうとサラ金御用弁護士をしてでも金を稼ぐことが彼の自己実現であったのだろう。しかしそれだけでは彼の心は満たされなかった。そして今は政治の世界で権力を握ることが彼の自己実現の道になっているのだろう。

心理学者の小倉千加子は橋下氏を評して「振幅が大きく、傷ついた野獣を心に抱えているようだ」(朝日新聞)と書いている。私もそんな気がする。何をしても満たされない自尊心と肥大化した自己愛が彼を衝き動かしているのだろう。「傷ついた野獣の心」は大阪市長になっても癒されないだろう。次は何を目指すのだろう。内閣総理大臣か。何か破たんの結末が見えるような気がする。細川・小泉・麻生元首相などの「上流階級」出身者は政治の世界で破たんしても何食わぬ顔で政治は卒業しましたと涼しい顔で生きていく。しかし橋下氏のような庶民の「成り上がり」が権力闘争で敗北するとそうはいかない。袋叩きの目に合うことになる。松田勇作の演ずる昔の映画の主人公と重なって見える。

彼の内面がどうであれ、サラ金御用弁護士時代はローン返済困難者を多く泣かしたであろう。そして大阪府知事・市長を歴任し、新自由主義的手法で大阪府市民を泣かせることは看過できない。早く政治の世界からは足を洗ってほしい。いや洗わせたい。

「あらゆる星が北極星を中心として動いているように、世界は私を中心として動いている。私は秩序そのものであり、法律そのものである」(「ジュリアス・シーザー」シェークスピア)

2011年10月17日月曜日

映画エンディングノート「上手に死ねるでしょうか?」「上手に見送れるでしょうか?」

67才元熱血営業マンが健康診断でステージ4の胃ガンを診断された。そして半年後になくなった。胃ガンに本人と家族が取り組む様子をフリーの映画制作者である実の娘が撮影し監督したドキュメンタリー映画だ。 


「段取り命」の元営業マンは「私は死ねるでしょうか?上手に死ねるでしょうか」と自問する。上手く死ぬために「自らの死の段取り」とエンディングノートを作成し、律儀に実行する。


 こんな段取りである。
 ToDo 1 神父を訪ねる
 ToDo 2 気合いを入れて孫と遊ぶ
ToDo 3 自民党以外に投票してみる
ToDo 4 葬式をシュミレーション
ToDo 5 あわび、母
ToDo 6式場の下見をする
ToDo 7 もう一度孫と会う
ToDo 8 孫に挨拶 母に電話 親友と談笑 息子に引き継ぎ
ToDo 9 洗礼を受ける
ToDo 10 妻に(初めて)愛してると言う
ToDo 11 エンディングノート 


つまり妻、母、子供、孫、友人と関係を振りかえり残された時を大切に過ごし、別れを言うこと。エンディングノートには葬式の段取り、財産処理、近親者の今後が書かれている。 映画はこの段取りの遂行を順を追って描く。観客は緊張しながら、微笑みながら、涙を流しながら観る。そして映画を観た後、自分は上手に死ねるか、上手に見送れるか考えることになる。死についてはこれまで話題にすること避けてきたため、人はいかに死んでいくのか知らない人が多い。この映画は死を考え、話題にするいいきっかけになる。


 しかし死と遭遇し上手く対処するにはマニュアルだけではだめだ。死が訪れつつある本人と家族は自分の人生と自身の存在の意味を考え悩み苦しむ。この作品では、その本人と家族の死を目前にした恐れ悲しみ不安怒りなどは十分には描けていない。それは本作品がドキュメンタリーであり基本的に演出や撮り直しがきかないからであろう。なおかつ監督が主人公の娘で当事者であることが影響している思う。この映画を監督自身が小説化した「音のない花火」では娘自身の葛藤がうまく書かれている。才能のある監督の次回作に期待する。
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2011年10月13日木曜日

朝日新聞の「教育基本条例を問う」は秀逸だ 橋下人気の潮目は変わった


大阪府知事選挙市長選挙が近づいてきた。選挙では橋下府知事・大阪維新の会が提案する教育基本条例が一つの争点になる。朝日新聞が「教育基本条例を問う」と題して10月10日維新の会大阪市議坂井良和、12日ワタミ会長渡辺美樹、13日内田樹のインタビュー記事を掲載した。教育基本条例に関する論点を明らかにした記事である。多くの方が読まれることを希望する。

坂井良和氏は「エリート養成格差は辞さず」と明言する。「人格形成だけでは人は生きてゆけない。」「義務教育は9年から7年にして、残りの2年間は勉強でもスポーツでも趣味でも、好きなものに没頭すればいい。」「私は格差を生んでよいと思っている。」「まずは格差を受け入れてでも、秀でた者を育てる必要がある。」条例の基本的狙いはエリート養成であることを率直に語った。この記事を読めば多くの人は自分の子どもに「君は勉強しなくていい。外で運動でもしてなさい」と言われたような気がするに違いない。坂井氏はここまであけすけに語っても、非エリート一般人が支持すると思っている。たいした自信だ。坂井氏は教育基本条例の案を練った大阪市議で、裁判官・弁護士の経歴を持っている。坂井氏に質問したい「ではあなたは、自分のことをエリートだと思っているのか」と。

渡辺美樹氏は「教委の無力化ではなく機能強化を」と述べる。教育に競争原理を導入し、3年連続で定員割れし、改善の見込みのない府立高校は統廃合する方針については次のように言う。「競争をあおるだけでは意味はない。」「「不振店をつぶせば他の店の売り上げが伸びるわけではない。好調店の店長を不振店に送り込み、逆に不振店の店長を好調店に入れる。不振店の従業員は意識が変わり、好調店で学ぶことで不振店の店長も視野が開ける。結果、全体の接客レベルが上がる。」実際に企業経営をしているから言える言葉である。

内田樹氏は「競争原理はむしろ学力が下がる」と述べる。「大勢に順応してうまく世渡りする秀才ほど共同体にとって危険なものはない。上意下達組織は教育になじまない。」「利益誘導モデルに基づく条例案の考え方そのものが、今日の教育の失敗の主な原因だ。」「条例案が追求する『人材』とは、自己利益追求のために競争相手を蹴落としていくような人間。」橋下知事は「教育は2万%強制」というが、内田氏は「成熟した市民に育ってゆく過程に強制は効かない。」と指摘する。

実際の選挙戦は、実際の中身が明らかでなくほとんどの府民が理解していない「大阪都構想」に賛成か反対か、そして橋下と平松のどちらが好きか嫌いかいうイメージ選挙になる公算が大きい。そして橋下維新の会は今回の府知事・市長選挙で勝てば府民市民は教育基本条例を支持したと強弁するだろう。できるだけ多くの方が、橋下徹氏が推進する教育改革について理解され投票されることを希望する。



私は朝日新聞のこの記事のコピーを多くの人に配るつもりだ。この記事を読んで橋下維新を支持する人は少ないと思う。この3年間の橋下ブームは在阪マスコミがつくってきた。しかし、潮目は変わりつつある。この朝日の記事がきっかけで橋下維新は敗北したという日が来ると思う。

2011年10月10日月曜日

「娘に語る祖国」つかこうへいの歴史認識・人生・祖国


 つかこうへいのエッセイ「娘に語る祖国」を読んだ。つかは韓国籍の在日韓国人2世であり、現代日本を代表する劇作家・演出家・小説家(1948424 - 2010710日)であった。私はアジアの中で生きていくには、在日韓国人・朝鮮人の気持ちと考えを理解することなしにはできないと考えている。この本で書かれた、つかの歴史・人生・祖国についての考えに共感を覚えた。

 つかは過去の歴史について端的に書く。「戦前、日本は大東亜共栄圏とつくるという構想のため(アジアが心を一つにするということですが、早い話、植民地をつくって奴隷に働かせようとしたのです)、朝鮮や満州(いまの中国東北部)を侵略しました。」事実を思い起こすと「むらむらと憎しみの炎が燃えあがる」と。
しかし「でも、侵略された方も、威張れるところはないのです。もし立場が逆になって韓国が戦争に勝っていたら、韓国だって日本と似たようなことをしていたと思います。」と冷静に突き放してみている。もちろんこれは過去の日本の行為を是認する意見ではない。
つかは娘に「人の傷みや哀しさのわかる人」になってほしいと言う。そして「文化とは、恥の方向性だと思う。」なにを恥と思うか、なにをはしたなく思うかが大切なのだ。「恥のない人間はクズです」と断じる。つかの弁をかりれば、過去の戦争をいまだに「侵略戦争ではない、アジアの解放の戦争だった」と言い続ける人たちは、人の傷みや哀しさのわからない、恥を知らないクズと言える。

 「昔、奴隷のように扱われたといって恨むのではなく、奴隷のように扱われるにふさわしい、その程度の国であり、国民であった」とひらきなおって考えろと極言する。「昔差別されたことを、水戸黄門の葵の印籠見たいして生きていくのは、パパは男らしくないと思うのです。」「血だの、民族の誇りだのなんてことを、男が言っていられますか。パパには、もっと大切なお仕事がある」卑屈になるな、誇れる仕事をしようと呼びかける。
つかは仕事についてこうも書いている。「人間誰しも強いところと弱いところを持っています。その時々に強さを選択したり、弱さを選択したりするのです。パパは、その弱さを選択した人を少しでも勇気づけられるような仕事をしていきたいと思っています。」

つらい目にあって、くじけそうになったり卑屈になったりした時、「目の前にいる人を信じて生きてほしいと思っています。信じて、騙され、傷ついても、その時は例の『明日はきっといいことがある』です。」「とにかく一晩眠って、それから考えよう」「『明日はきっといいことがある』、そう思ってください。」こんな屈託のなさが人生の秘訣なのだ。

 つかは祖国についてこう書いている。
「祖国とは、おまえの美しさのことです。ママの二心のないやさしさのことです。パパがママをいとおしく思う、その暑さの中に国はあるのです。二人がおまえをかけがえなく思うまなざしの中に、祖国はあるのです。そして、男と女がいとおしく思い合う意志の強さがあれば、国は滅びるものではありません。」
 家族を大切に思う心。そして自分と家族につながる人たちを大切に思うこころなかに祖国はある。つかはがんで死ぬことを覚悟した遺書の中で「しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。」と書いている。国籍がどこかではなく、彼につながる人々がいるところが彼の祖国だったのだ。

 これから我々がアジアで生きていくために、多くのかたが一読されることを希望する。

2011年10月8日土曜日

橋下徹知事の「成果主義」は成果主義と似て非なるもの 教育基本条例は白紙撤回を


橋下知事と大阪府教育委員との議論がおこなわれ注目を浴びている。この議論の中で橋下知事は、教育基本条例案が提案する「人事評価」は民間のどこでも行われていることだと主張した。しかし橋下氏の「人事評価」は民間で行われている「成果主義」とは似て非なるものである。また民間の「成果主義」そのものが、成果が上がらず反省の対象になっている。

野村総合研究所の「経営用語の基礎知識(第3版)」によると、成果主義とは「人事評価の際に、従業員の労働意欲や潜在能力よりも、仕事による成果を重視する考え方。」である。「人事評価は、企業が従業員に期待する人材像・役割を示すものです。成果主義は、従業員が能力を十分に発揮して成果を上げることを重視します。」すなわち成果主義は「仕事による成果」で人事評価しようというものである。

一方橋下知事の提案する「人事評価」は「授業・生活指導・学校運営等への貢献を基準に、教員及び職員の人事評価を行う。人事評価はSを最上位とする5段階評価で行い、概ね次に掲げる分布となるよう評価を行わなければならない。S5%A20 %B60 %C10 %D 5%」(教育基本条例案第19条)すなわち「成果」を評価するのではなく「順位」を評価しようと言うのである。どんなに「成果」をあげても競争で負ければ順位は低くなり評価は下がるのである。ましてや2年連続最低のDランクになれば免職を含めた処分の対象にするとは前代未聞の暴論である。これは成果主義ではなく競争主義である。橋下知事は優勝劣敗がお気に入りなのだ。こんな人事評価をしている民間はどこにもない。弁護士法人橋下綜合法律事務所がこの競争主義人事評価をしているならその成果を開示してほしい。

さらに成果主義は反省期にはいっている。「成果主義は成果へのモチベーションを高めることができますが、成果の上がりやすい仕事とそうでない仕事との不公平や、将来の環境変化に対応した人材育成という視点からは万能薬ではありません。また、結果のみを重視することは、目標達成には必ずしも有効ではありません。」(野村総合研究所の「経営用語の基礎知識(第3版)」)成果だけの評価でいいのか。成果はだれが客観的に公正に評価できるのか。どんな評価項目と評価尺度を持つべきか。検討すべき課題は山積している。成果主義が逆に職員のモチベーションを下げたり、職員相互の仲間意識を阻害したりする結果がでている。また評価に要するコストも問題である。成果主義は成果があがらず反省期に入っている。「評価主義は民間のどこでもやっている」とは民間の実情を知らない机上の空論である。

2011年10月6日木曜日

脱原発へ『原水協と原水禁が協力を』訴えた共産党志位発言を歓迎します


 10月6日付朝日新聞によると日本共産党志位和夫委員長は「『原水協と原水禁が協力を』『原発をなくそうという方向で協力できたら……』。共産党の志位和夫委員長は5日の日本記者クラブでの講演で、脱原発で旧社会党系の人たちとの歴史的な対立を乗り越え、連携する必要があると訴えた。」とのことです。よく言ってくれたともろ手を挙げて賛成します。http://youtu.be/6FeokxKKpLg


9月19日脱原発集会には主催者側の発表でおよそ6万人が集まり大成功し脱原発運動を大きく励ましました。この集会の成功の一つの要因は原水禁の主催の集会に、いわゆる「共産党系」の団体・個人が自主的に参加したことがあります。脱原発のためには原水協も原水禁もないという想いが生まれているのです。どのマスコミもこの点を指摘していませんせんでしたがここが潮目の変化のポイントだったのです。私は1970年前後に大学生活を送った学園紛争世代ですが、すでに医療崩壊に反対する運動では「民青」も「全共闘」もないと、過去の行きがかりを捨てた連携が生まれています。脱原発を実現するためにすべての潮流が過去の経過を保留し力を合わせる時です。

 今回改悪反対の運動では061月「憲法改悪反対の一点で共闘を」日本共産党が社会民主党に会談申し入れを行っています。しかしその後の共同行動は部分的なものにとどまっていますが、憲法改悪をさせない力関係を作っています。今回の脱原発の運動ではぜひとも共産党・社民党の枠にとどまらない大きな共同闘争をつくりあげ、広島・長崎・福島を経験した日本で脱原発を実現したいと思います。世論調査をすれば8割9割の国民が脱原発を支持しています。それを政治的な力にするために署名や集会やデモに結集する必要があります。過去の分裂や対立の経過は保留し歴史的和解と共同を実現するときです。民主党政権に対する幻滅と失望が政治的な閉塞感を生み出しています。その閉塞感を克服の展望を示唆する志位発言です。

2011年10月3日月曜日

地デジ、2%が未対応 「難民」発生裏付け・時事世論調査


10月2日の時事通信は地デジ対応の実態を報道している。

「7月下旬の被災3県を除く地上デジタル放送移行後も地デジの視聴対応を済ませていない人が、時事通信が実施した世論調査で2.1%残っていることが分かった。薄型テレビやアンテナなどの準備が間に合わなかった「難民」や、地デジ化を機にテレビを見るのをやめた層が一定数いることが裏付けられた。 年代別に見ると、70歳以上が1.2%で最も低かった。事前には高齢者が取り残されることが懸念されていたが、国の支援策などもあり実際には比較的順調に移行が進んだとみられる。一方、20代が3.6%、30代が3.5%とやや高めで、若い世代の一部がインターネットの動画サイトなどに流れた可能性もある。」

 2%が未対応となると数百万人が地デジ対応してないことになる。時事通信は高齢者の地デジ対応は「国の支援策などもあり実際には比較的順調に移行が進んだ」としているが、地デジ対応していない高齢者は若者のように自ら選択してインターネットの動画サイトに流れたとは考えがたい。70歳以上の人口は約二千万人だからその1.2%すなわち約25万人がテレビから遮断されたことなる。数%はわずかの数であるとして無視し切り捨ててはいけない。

マスコミはテレビから遮断された数百万人の人、とくに70歳以上の25万人のそれぞれがどんな理由で地デジ移行できないのか調査してほしい。テレビから遮断されてどんな生活をしているか報道してほしい。

私の知っている高齢者の方は、認知症があるため「国の支援策」により提供された地デジチューナーを使いこなせなかった。テレビとチューナーの二つのリモコンを二つ操作することができなかった。仕方なく新しい液晶テレビを購入したが新しいテレビのリモコンには非常に多くのボタンがついているので使い方を覚えることができず結果的にはテレビを見ることができていない。

地デジ移行によりテレビから遮断された方、一人ひとりの状況をつかみ個別の援助を引き続き行うことが必要だ。

2011年10月2日日曜日

NHKスペシャル「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報」が再放送されます


201186日(土)に放送された上記番組が、20111029(土)午後305分~403分A総合テレビで再放送されます。非常に興味深い内容ですので見落とされた方は是非視聴されることをお勧めします。

以下NHKオンラインよりの引用です

原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。86日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。

敗戦が不可避になった状況で、参謀本部の関心事は天皇制の温存と軍指導部の戦争犯罪者としての処罰の回避であった。原爆投下の情報を事前に入手しても、空襲警報も鳴らさず、迎撃機も飛ばさず、アメリカのなすがままにさせた。天皇も参謀本部の軍人も広島・長崎から遠く離れていた土地におり自分たちには何の危険もなかったからである。

原爆投下情報は活かされなかったが、その活かされなかった歴史の事実から学び未来に活かすことが私たちの責務だ。

2011年10月1日土曜日

御堂筋に美しいヤブランが咲いています



御堂筋を車で走っていて銀杏の根元に紫色の花が咲いているのに気がついた。今年の春先に阪神高速環状線の大渋滞にあって以来、御堂筋を走ることにしている。一般道を走ると溝の中を走るような高速と違って季節の変化がわかって楽しい。御堂筋はイチョウで有名だ。銀杏はどうかと気をやりながら走っているとイチョウ並木の足元に紫色の花が咲いているのに気がついた。清楚な紫色が心に残った。大阪という喧騒の街にふさわしくないというか、こんなところに咲いてくれてありがとうと言いたい感じの花だ。信号待ちでよく見ると、花は穂のように咲いており、葉は濃い緑色で、クリーム色の縞斑が見られた。ぜひ名前を知りたいと思って携帯で写真を撮った。

早速、草花博士の友人に写真を見せた。「これはヤブラン(藪蘭)です」と答えた。「ユリ科の植物で、山野の藪に自生し、葉が蘭に似ているのでヤブランと呼ばれています。園芸でよく栽培される植物で、日の当たらないところでも育ちます。御堂筋にもありましたか。花壇の縁取りやグランドカバーなどに広く使われています。」

人の言うことをにわかには信じない主義の私は、ネットで調べてみた。確かにヤブランだ。さすが草花博士だ。ヤブランはありふれた花でそれを知らない私のほうが無知なのだろう。ヤブランの花期は8月~10月だそうだ。そうするといつからヤブランは咲いていたのか。前から咲いているのに私は9月の末にようやく気付いたのだろうか。「心焉に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」(「大学」)そんな日々を私は送っているということだろうか。

日々の生活・仕事に追われ、関心が目先のことに集中し、既成の枠組みで思考し、多くのことを見落とし聞き落しているのだろう。ヤブランの花言葉は「忍耐、隠された心」だそうだ。辛い状況で耐えている人のことに気づかないで日常的に無視しているのかもしれない。余裕をもって、心の感度・感受性をあげることが必要だ。これからは「昨日と違う何かがないかと」と好奇心を持って生きていきたい。

ともあれ美しいヤブランの花に気づけてよかった。